意識と無意識の話
私たちには、普段意識している部分と意識していない/できない部分(無意識)があると言われています。
それぞれの人生、毎日があり、どのくらいのことを覚えているでしょうか。
一瞬一瞬感じたことはどうでしょうか。
人間の意識できている部分は本当に少しで、無意識の部分がほとんどと言われています。
そして、この無意識は意識に影響を与えています。
いつでも「今」というのはこのときしかないもの。初めての経験です。
でも、人は時に、過去の経験をもとに選択をすることがあります。
前にこういう人と会った時こういうことがあった、だから「今」のこの人も苦手だ。
前にこういうできごとがあった、だから似たようなケースの「今」これも避けたい。
いろいろな情報の中で一番生き残りやすい方法を過去から割り出して、選択をする。
これももちろんいいわるいではなく、方法です。
ただ、この選択が毎回「今」に適用されるかというと、そうでもないかもしれません。
前はこうだったけど、「今回」は大丈夫かもしれない。
前にこういう人がいたけど、「今回」は友だちになれる人だった。
ということも充分あり得ます。
過去のデータで選択をするとき、人はその記憶を見ている状態、もしかするとメガネをかけているようなもので、
そのまま「今」を見ていないかもしれません。
そのやり方で大丈夫なときは、それも方法かもしれません。
ただ、そうするとなんだかつらい・くるしいそんな時は、メガネを外すチャンスが訪れているのかもしれません。
この過去の記憶のメガネ。
これは無意識にしまわれているデータを見ていることが多いようです。
意識できないところにあるため、同じ記憶メガネが似ている場面で、何度も自動でかけられている場合もあります。
もちろん、自分を守るために選択されていることです。
記憶をベースに防衛行動を「今」とることになっていたりするんですね。
自動で何度もかけられているメガネの方法が合わなくなっている時、
メガネを外す方法はいくつかあります。
・「今」で成功体験をつむこと。(大丈夫だったというパターンを増やすこと。)
・気にしないこと。(気にしないで大丈夫だったというパターンを増やすこと。)
・気をそらすこと。(他の事に集中するなど、メガネをかける要因をなくすうちに、その場面を超えていたりする。)
そして、
・意識できるものにすること(メガネをかける必要は、なぜあったか気づくこと。扱えることにすること。)
・滞りを流すこと。(メガネをかけることは、前向きに進む「今」の時間と反対方向に進むことや当時のストレスに直面するなど滞りを生むことがあります。)
おすすめしたいのは、
ご自分で前向きな取り組みの中で乗り越えていくこと。
楽しい方に焦点をあてたり、今に集中できること(仕事や掃除など)を行ううちに、大丈夫だったと気にしないでいられるようになったり、
空威張りではない自信を持つことで、ゆとりやよゆうがうまれていくこと。
一方で辛かったり苦しいときは、感情にのまれたり、他人の言葉や態度が気になるなど外に選択の基準を求めたり、線引きがあいまいになってしまいがちなこともあります。
また、無意識で過去のメガネのことが強く影響してなかなかメガネを外せない時もあります。
そんなとき、
カウンセリングが行うことができる「意識できるものにすること。」、
キネシオロジーで行うことができる「滞りを流すこと。」
もどうぞご利用ください。
一人では、無意識を意識しようと思っても掘り下げにくいできごとや、
またその時のその場だったから、見つけられることもがあることもあります。
カウンセリングの場で話しやすい理由の一つは、
自分のことをカウンセラーを通して整理する、カウンセラーを通して自分を見つめる・違う角度から対話する。
ことほぎのカウンセリングは、カウンセラーが答え(解釈)を与えるものではありません。
体を通したキネシオロジーも誰かを変えるものではありません。
自分をもっと知りたいという方にもおすすめかもしれません。
→ことほぎのカウンセリング・キネシオロジーってどんなもの?
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我思う故に我あり。(Cogito ergo sum.)
デカルトという哲学者さんが、ずっと昔に言った言葉だそうです。
私たちは普段、いろいろなことを選択しています。
これは好き、嫌い。
これはいい、わるい。
これは正しい、間違っている。
当然、こうした選択の舵をきっているのは、自分が意識して行っている。
そうかもしれません。
一方で、
では、なぜ、それを「すき」なのでしょうか、「きらい」なのでしょうか。
たくさんの理由が出てくるかもしれません。
では、その理由にも同じように「なぜ?」を問いかけてみてください。
その後ろにもたくさんの理由が出てくるかもしれません。
あるいは、「すき」や「きらい」に戻ってくるかもしれません。
もしかしたら、この「なぜ?」の問いかけを正直に続けていくと、思ってもみなかった答えや忘れていた記憶が出てくることがあるかもしれません。
このように、普段私たちは、思い出そうと思えば思い出せるけど意識していない場所、
そして思いもみなかった、忘れていたというような意識できなかった場所があります。
映画やドラマでさえ、
同じ場面をみていても、人によって感想は千差万別。
これは日常についても同じです。
ある人にとっては、楽しく感じることもあれば、
ある人にとっては、つらかったり、特に何もという場合もあります。
こうした意味づけは、次に似たような場面にあったとき、どう反応すればよいか、傷つかずに済むかといった学習材料にもなります。
では、こうした自分が次回傷つかないように意味づけをした最初の学習材料はどこにあるのでしょうか。
実は、これは無意識と呼ばれる普段意識していない/意識できない場所にしまってあるそうです。
なぜ意識できないのでしょうか。
理由のひとつに、意識したくないからということが指摘されています。
意識すると傷ついたときのことを再生することになるからですね。
このため、無意識の中にしまわれた記憶の中には直接みないで済むように、再生してもつらくないように少し形を変えたりしながら、
「この場面は傷つくかも、だってこういう感じだったもの」
と意識の行う選択に影響していることがあります。
言い換えれば、
無意識の中にしまわれた、この傷ついた記憶を再生しないように同じ場面にならないように、
意識はできごとを選択したり、反応したり、あるいは感情がわきおこってくるということがあります。
こう考えてみると、まるで舵をきっているのは、無意識のジャッジのような?
もう一度思い出してみましょう。
同じ場面をみても、人によって何を感じるかは人それぞれです。
でも、同じ場面があるのですよね。
この、事実というもの。
そこにみかんがある。
お日様がのぼった。
オリオン座がみえた。
三日月だった。
海に波が立った。
〇〇さんが「 」と言った。
この事実というのは、ただ「〇〇だった。」という以上でも以下でもないんですよね。
ここにつけられた意味づけは、
無意識にしまわれた過去と重ねてついた色かもしれません。
これが楽しかったり、嬉しかったりするとき、この重ねられた色のおかげでできることが増えることもあります。
一方で、くるしくなってしまうときはどうでしょうか。
ひとつはストレスになるといえるかもしれません。
でも、この色付けも過去のように傷ついたり、過去のつらかったときをみなくてよいように自分を守ってくれているところがあります。
実際、
「事実をみて、私はくるしいと感じた。」と言ってしまえば、これも事実です。
ただ、こうした色付けが重ねられている時、
「○○はこういう意味だからくるしい」
と解釈しがちになってはいませんか?
「〇〇さんが、□□と言った。私はくるしいと感じた。」
「〇〇さんが□□と言ったのは、何色という意味だからくるしい。」
というのでは、主観という色がついていますよね。
物事にはいろいろな側面や可能性があるけれど、ひとつの主観(色付け)に限定しているように見えます。
そのとき、くるしいと感じたのは、事実なんですよね。
ことほぎのカウンセリングやキネシオロジーでは、こうしたことを否定したり、
この文章のように長々と解釈するのではなく(笑)、
ストレスとして心身にあらわれた色を、
どう感じていたのか言葉にだして整理したり、ほどいたり、無意識からどんなメッセージを受けていたのか気づいたり、
無意識にしまっていた記憶に絡んでいたストレスをほどいたりしていくことで、
事実の見え方がかわっていく、楽に向かっていくお手伝いをしています。
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